まっすぐな、わたしのせかいで

発達障害のわたしが生きている世界を綴ります。

孤独について

誰しもが多かれ少なかれ孤独というものを抱えて日々生きているのだと思いますが、ASDの人々のそれは少し様相が違います。

 なぜなら、他者のことを"心で"理解することができないからです。

人間として生まれて人間社会で生きていかなければならないのに、他者の心や心情を理解できないというのは、「個性」と呼ぶには無理があるもので、わたしはやはり「障害」もしくは「欠落」と感じてしまいます。

そもそも、他者にも気持ちというものがあるということすら知らなかった私は、無自覚に周囲の人びとを不快な気持ちにしてしまってきたようです。家族や恋人からは、わたしの言動が余程ひどいものだったのか、何度も非難されたり否定されたりしてきました。
 
そんなとき、わたしは途方も無い孤独を味わいます。
 
自分は間違ったことを言っていないし、どうしてそれが分かってもらえないのか。
一体なぜわたしばかりがおかしいと言われなきゃいけないのか。

そういったことを延々と、ひとり考え続けます。



人間社会には、「礼儀」や「言葉遣い」をはじめとしたコミュニケーション上のマナーやルールなどが沢山あり、多くの人はそれらを成長と共に無意識のうちに感覚として身に付けていくものなのだと思います。

わたしは人と会話をすることはできるのですが、そういった暗黙の了解やルールが分かっていなかったり相手の心や心情が見えないが故に、人と話をするときは常に暗闇の中を階段を降りていくような状態でコミュニケーションをとることしかできません。

何かの拍子に足を外してしまう恐れがあり、とても危ないです。
わたし自身、強い不安を抱きながら会話をしています。

でもこれでもマシになった方なのです。子供の頃は、暗闇だろうと関係なくふつうに階段を降りていたのでそこら中怪我だらけでした。
今は、慎重に階段を降りることでなんとか大きな怪我は防ぐことができています。(多分...)


しかし、他者の心が見えず、それによって人と繋がれないというのは言葉にし難いほど孤独なものです。

この孤独というのは物理的なものとは種類が違います。
わたしは、物心がついた時、具体的には4才の頃からずっとこの孤独を抱えてきました。

他人にあまり関心がなくひとりで遊ぶことをとても好むのは今も昔も変わりませんが、それは半ば仕方がないからとっている行動でもあるのです。

他人にまったく興味や関心がない人間なんてこの世にいないと思います。
ただ、人と関わる方法を知らず技能を持ち合わせていないので、諦めるしかないのです。

幼稚園や小学校で同級生達が楽しそうに遊んでいるのをぼんやりと眺めては、わたしは世界の外側の人間だからあそこには入れないんだなと思っては悲しい気持ちになっていました。実際、幼稚園ではわたしが遊びに入るのをピシャリと拒否されたので...(その子の名前はいまだに忘れられません)

わたしは何度も何度も世界の中に入っていくことを試みましたが、まったく上手くいきませんでした。

結局また外側に戻ってきてしまったな、と落ち込んだりもしますが、きっとここがわたしの居場所なのだと思います。


わたしの世界には、人間はいませんが、美しい音楽があります。大小色んな動物がいます。豊かな自然もあります。そして、物語があります。
そこにいる限り、わたしは笑顔でいられます。わたしの全てを受け入れてくれるからです。

明日も明後日も明々後日も、そこでゆっくり一日を過ごします。